降りしきる雨の中、互いの思いを確認し合った糸と弥平次だが、それを隠しておかなければいけないことを二人はよく知っている。

たしかに、弥平次は扇屋という大店の息子だが、勘当状態で井筒屋に奉公している手代。そして、糸はその井筒屋の家付き娘。そんな二人の関係を父親である清兵衛が認めるはずがない。

それでも、若い二人は思いを抑えることができない。いつの間にか、二人は人目につかぬようにこっそりと逢引を繰り返すようになっていた。

しかし、あまりにも頻繁になってくれば、どうしても女中たちの目にはついてしまう。もっとも、彼女たちにすれば、これは恰好の話の種もある。そのため、女中たちは仕事の合間にこの話で盛り上がり始めていた。

「ねえ、あんたはどう思うの?」

「だから、何よ」

「わかっているくせに。ほら、また弥平次さんが来たわよ」

そう告げられ、肩を叩かれた方は、相手の示す方に目をやっている。そこに映る人影に、声をかけられた方は、大丈夫なのか、というような色を顔に浮かべていた。

「ねえ、旦那さまがこのこと、知ってるってこと、ないわよね」

その声に、別の女中が訳知り顔で話に入ってくる。

「旦那さまが知ってるはずないじゃない。だって、旦那さまは番頭さんとお嬢さんを一緒にするつもりなんだもの」
その声に、その場にいた女中たちは顔を見合わせる。そんな事情があるのなら、このことを清兵衛が知ったらどうなるか。
「じゃあ、このことがわかったら、弥平次さん大変なんじゃないの?」

一人のその声に、別の相手も頷いている。

「そうよね。間違いなく、お店からは追い出されると思う。それに、お嬢さんもただじゃすまないと思うわ」

その声に、女中たちは一様に首を振る。清兵衛が娘の糸に甘いのは有名だが、彼が大店の旦那であることも間違いない。店を今以上に繁栄させたい彼が、やり手の番頭と娘を夫婦(めおと)にするのは当然ともいえるだろう。

しかし、彼女たちから見れば、年かさの嘉兵衛よりも、若い弥平次の方が糸には似合うと考えている。そのため、彼女たちは弥平次が糸とこっそり会っていることを他では話そうと思ってもいなかった。

そして、そんな事とは露知らぬ弥平次は、糸を庭の陰に呼び出している。恋しい相手からの付文に喜んだ糸は、誰もみていないことを確かめて、いそいそとその場にやってきていた。

「弥平次、そこにいるの?」

囁くような糸の声が、その場には流れている。その声を耳にした弥平次は、彼女をぐっと抱きしめる。その腕の力強さに、糸はうっとりとしたような表情を浮かべていた。

「弥平次、おとっつぁんには知られていないわよね」

糸にしても、手代である弥平次と恋仲になっていることが知られるのは危険だという認識がある。そのため、彼と会った時に最初に口にされる言葉がそれ。

そして、彼もそんな糸の思いをわかっている。彼女を腕に抱いた弥平次の口からは、糸を安心させる声しか漏れてこない。

「大丈夫です。旦那さまは気がついておられません。それよりも、今日はお嬢さまにお渡ししたい物があるんです」

そう言うと、弥平次は袂から小さなものを取り出すと、糸の目の前にそれを差し出していた。それが、可愛らしい細工の簪だということを知った彼女の目が喜びに輝く。

「弥平次。なんて可愛らしいの。でも、無理をさせたんじゃないの? あなたの給金で、こんなのを買うのは大変なんじゃないの?」

弥平次が差し出した物は、いつも糸がつけている花簪ほど大きいものではない。それでも、細工物のこれが手代の給金で簡単に手に入るものではないことに糸は気がついている。

恋人に無理をさせたのではないか、と不安がる糸に、弥平次はしっかりとした声でこたえていた。

「心配しないでください。愛しいお嬢さまに贈る物です。お嬢さまが喜んでくださるのが何よりです」

弥平次のそんな声に、糸は頬を真っ赤に染め、彼の胸に顔を埋めるだけ。そんな彼女の髪を弥平次は愛おしそうに撫でている。その彼に、糸は甘えたような声でしなだれかかっていた。

「弥平次、それをつけて」

その声に、弥平次は驚いたような表情を浮かべている。それでも、自分が贈ったものをその場で糸がつけてくれることが、嬉しくないはずがない。彼はそっと糸の髪に、簪をさしている。

「ねえ、似合う?」

小首を傾げながら問いかける糸の姿は、弥平次には何よりも愛らしいと思えるもの。そんな彼女の体をしっかりと抱きしめた彼は、耳元でそっと囁きかけている。

「よく似合っています。そして、お嬢さまがそんなに喜んでくれるのが、わたしには何よりも嬉しいことです」

その声と同時に、弥平次は糸の唇をふさいでいる。突然のことに驚く糸だが、彼女がそれを拒むはずもない。

遠慮がちに重ねられる唇は、互いの思いを伝えるように、熱っぽく何度も繰り返される。今の二人は互いの思いが通じ合っていることだけに喜びを感じているのだった。


◇◆◇◆◇


若い二人がそうやって、何度も逢引を繰り返している。そのことを清兵衛は何となくだが、感じとっていた。

もっとも、その相手が弥平次だということまで気づいているわけではない。彼は奥の女たちが変にそわそわしている態度から、何かがあるのではないかと思っているのだった。

そんな中、清兵衛は糸の髪に飾られている簪にふと目を止めていた。

それは、いつも糸がつけている花簪とは違うような気がする。いつの間に、あんなものを手に入れたのだろう、と思った清兵衛はその場にいた嘉兵衛に問いかけていた。

「嘉兵衛、ちょっと訊ねるが、糸の簪。あれはお前が糸にやったものかい?」

主人の問いかけに、嘉兵衛は不思議そうな色を浮かべるだけ。そんな彼の姿に、清兵衛は糸が誰かと情を交わしているのだということを確信していた。



  目次