扇屋徳次郎は持っていた煙管(キセル)を煙草盆でポンと叩くと、これ以上はないというしかめ面を浮かべていた。

「旦那さま、どうなさいましたか?」

店の主人が不機嫌な顔をしていると客の足が遠のく、と考える番頭の彦太郎が徳次郎に声をかける。だが、徳次郎の表情が晴れる気配はない。

しかし、そのような姿を店先では見せないのが徳次郎の信念であるはず。だというのにこのような姿をさらしている。彼がそうなってしまう理由に思い当たった彦太郎は声をかけたことを忘れたふりをして、その場から逃げようとしていた。それを引き留めるかのように、徳次郎の鋭い声が投げかけられる。

「彦太郎、あの馬鹿は帰ってきているか?」

苦虫を潰したような声と同時に、また煙草盆がポンと叩かれる。そのはずみで盆の中から灰が飛び散るが、徳次郎がそのことを気にする様子もない。普段からは考えられない主人の様子に、彦太郎は首を縮めて恐る恐る返事をするしかできなかった。

「馬鹿、と申されますと?」

徳次郎のいっている馬鹿が誰か、ということは扇屋では知らぬ者がない。それでも、あえて名前を出すつもりがないという彦太郎の思いを感じているのか、徳次郎の表情はますます険しいものになっていく。

「お前もよく分かっているはずだぞ。あの弥平次の馬鹿だ。今日はいつになったら、店に顔を出すと言っていた?」

ここが店先だということを忘れたように、徳次郎は大声を出す。その声が店の外にまで響いたのか、興味深そうに店の中をのぞく人影もある。そのことに気がついた彦太郎は、慌てたように店の入り口から主人を隠すように立ち直していた。

「旦那さま、落ち着いてください。扇屋の主人が店先で大声を出していた、と噂になったらどうなさるのですか。ほら、あのように物見高く中をのぞこうとする者もおりますから」

彦太郎のその声に、徳次郎もようやく気持ちをおさめたようだった。たしかに、まだ憮然とした表情は残っているが、なんとかして声を抑えようと努力もしている。そんな主人に、彦太郎はしみじみとした調子で声をかけていた。

「たしかに、旦那さまのお気持ちが分からないではありません。本来でしたら、弥平次さまが旦那さまの跡取りとして、しっかりとなさらないといけないのですから。それだというのに……」

彦太郎の声は話の途中で止まっている。その姿に、徳次郎は構わんというような表情を浮かべると自分から話の続きを始めていた。

「遠慮することはない。あいつの女遊びは今に始まったことではないからな。で、今回はどこの遊女にいれあげているんだ」

その声に、彦太郎はどう返事をすればいいのかわからない。ここで肯定してしまうと、扇屋の跡取りがどうしようもない穀つぶしだということを認めてしまう。しかし、女遊びが目立つ彼の行状をかばいきれないというのも事実。

こうなったら、この場はどちらともとれないようにするしかない。そう思った彦太郎が口を開きかけた時、店の外から軽い草履(ぞうり)の音がきこえてきた。

「おや、彦太郎。何を突っ立っているんだい? おとっつぁんも毎日、精が出られて本当によろしいことで」

そう言いながら、鬢(びん)を軽く撫でつける手の袂をもう片方で押さえつつ入ってきた若い男がいる。その整った顔立ちは、あたりの雰囲気を一気に華やいだものにしていた。

切れ長の一重の目、軽く持ち上げられた口角。すっと流し眼をするならば、あたりの女たちが雪崩をうって転がるだろう。しかし、その場にいる徳次郎や彦太郎に効き目はない。むしろ、疳の虫がきつくなったような表情になっている。

「お前にそう言われると、逆に気分が悪くなるわい」

「おとっつぁん。そんなことを言われる覚えがわたしにはないんですが」

「自分の胸に手を当てろ。この道楽息子が」

徳次郎が吐き捨てるようにいう言葉に、若い男は心外だというような色を浮かべるだけ。その彼に、彦太郎が呆れたような顔で声をかけていた。

「それはそうと、弥平次さま。今日はどちらの湯屋においでになっていたのですか?」

その言葉に、弥平次と呼ばれた相手は軽く鼻を鳴らす。その顔には、こんな日の高い時刻から湯屋になど行くはずがないだろう、とかいてある。もっとも、そんな彼の表情もこの二人にはまるで効果がない。

「まったく、少しは扇屋の跡取りだという自覚をもたんか。あちこちの湯屋で女相手に浮名を流すばかりでは、安心して身代を任せられんわい」

「おとっつぁん、それは言いすぎですよ」

徳次郎の声に、弥平次は思わず口を尖らせている。この扇屋の跡取り息子である弥平次、水も滴る優男。そこへもってきて、扇屋というのが巷でも有名な大店ときている。そうなれば、そこらの女どもがほっておくわけがない。そして、金も時間も十分にある彼が遊びに夢中になるのは当然のことともいえるだろう。

いつの間にか、『扇屋の弥平次』といえば、色街で知らぬ者がないくらいの有名人になっていた。しかし、そんなことを父親である扇屋徳次郎が快く思うはずもない。彼はこの日、一つの決心をして息子である弥平次と向き合うことにしていた。

「弥平次、実は話がある」

「なんでしょうか。おとっつぁん」

父親の気持ちが分からないのか、弥平次はどこか軽い調子で返事をする。その声に徳次郎は大きくため息をつきながら、あることを告げていた。

「毎日、毎日、お前のことが噂になっていると思うだけで身が細る。これは、店の体面にも瑕がつくことだ。だから、儂はこれ以上お前の浮名を聞きたいとは思っておらん。そして、お前も世間というものを知る必要があるだろう」

「おとっつぁん、何を言うんですか?」

徳次郎の言いたいことが弥平次にはわからない。小首を傾げながら問いかける彼に、徳次郎は冷たく言葉を吐き捨てる。

「知り合いの店で人を探しているところがある。荷物をまとめて、明日にはそこへ行け。二度と、この店と儂の前に姿を見せるな」


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